100日目―壊れた心を癒すのは―

 きゅう、と梓の顔を太腿で挟んで、蛍は痛む喉を無理やりに動かした。

「人の、体内で……トンツーやらないで、くれない?」

「いやあ、するつもりなかったんだけど、蛍ちゃん堕ちちゃいそうだったからつい」

「そもそも、どうして、狂ってるふりなんかしたのよ」
 何時間も舌責めを受け、とろとろになった顔で恨めしげな表情を作って、蛍は梓を睨む。
 あはは、と苦笑して、梓は返した。
「本当は、こんなつもりじゃなかったんだ。格好良く、最初の計画で決め切りたかった」
「前に言ってたあれ?」
「そう、あれ。精神安定剤まで使ったメインプランだったのに」
 あー、と奥歯を見せて、梓は顔をしかめる。
 沙羅とアイリーンは上手いこと勘違いしてくれたみたいだけど、梓は奥歯に4種類の薬を仕込んでいる。そのうちの1つを、あのタイミングで消費していた。
「で、あっさりバレてこの体たらくと」
 裸で縛られ、芋虫のようになっている梓をあごでしゃくる。
 梓にも、蛍にも、もうこの状態から逆転の目はない。
 だけど、蛍はどこか安堵していた。
 どうしてこのタイミングで復活したかは謎だが、少なくとも、明日からの辱めは梓と二人で耐えることができる。
 たとえ引き離されても、どこかで梓も耐えていると思えば、また頑張れる。
 そう思っていた蛍だったが、梓は唇を吊り上げて笑った。
「蛍ちゃん、もしかして話は終わりだと思ってない?」
「……この状態でこれ以上なにしろと」
「嫌だなあ、言ったでしょ。メインプランは失敗したって。当然、サブプランもあるんだよ。まあ、ラッキーパンチみたいなものだけどね」
 ねえ、覚えてる? と梓は囁く。
「私たちが、最初にした約束」
「……100日経ったら、出してあげるって」
「そう、だからさ」
 ころんと寝転がって、梓は蛍と背中合わせになる。枷にはめられたままの蛍の指を誘って、自分の手錠の指紋認証に押し当てる。
 ピー、ガチャ。
「え、………あっ」
「今更気づくなんて、意外と鈍いね、蛍ちゃん」
 ピープ音と共に枷が外れて、自由になった野茨梓は、こきこきと首を鳴らして悪戯っぽく笑った。
「今日で100日、あれからずっと、待っていた。蛍ちゃんに仕込んだ幹部権限が、有効化されるこの時を」
 てきぱきと足枷も外し、蛍の枷も外す。
「規約違反だから、あの時の画像は差し替えてある。『他者への権限付与』は、ファーストプランのとき真っ先に分離してプロテクトをかけた。だからもう、蛍ちゃんにこの研究所のセキュリティは何一つ機能しない」
「でも、この体じゃ……」
 戒めが外れて、手首をさすっただけで甘く痺れる体に顔をしかめた。
 蛍も、そして梓も媚毒に侵されて感度が日常生活を送れないレベルに上がっている。ただ座っているだけで床には愛液が広がっていくし、裸で走れば、陰核に触れる空気の流れで果てかねない。
 自らも体の火照りが収まらない梓は、湿った声で呼びかける。
「蛍ちゃん、こっち向いて」
 がり、と奥歯を噛んで、それから蛍と唇を合わせた。
「なによ……んっ⁉」
「ん、んんうっ……ちゅ、ん……ぷはっ」
 口内の唾液を集めて、蛍に流し込む。それを数度繰り返す。
 意外なことに、抵抗はなかった。
 すう、と感度が落ちていくのを感じて、梓は立ち上がる。
「4種の薬、2種類目だよ」
「……ずいぶんと用意周到だこと」
「物心ついたときから騙し合いしてたからね。これぐらいの自衛はしないと」
 にこりと乾いた笑みを浮かべて、梓は蛍の背を優しくたたいた。
「約束したからね、絶対に逃がすよ。蛍ちゃん」
 その言葉に少しだけ違和感を覚えながらも、蛍は黙って牢を開けた。

■■■

 幸運なことに警備はいなかった。
 なるべく音を立てずに、そして急いで駆け上がると梓の荒い息が心臓に悪いのでゆっくりと進んで、地下五階にある梓の部屋にたどり着く。
 パソコンの電源を入れて、梓は適当にクローゼットを指さした。
「下着は上の段、服は下段だけど、蛍ちゃんに合うのはないかも」
「……下着のサイズが合わない……」
「あー……どんまい」
 得体のしれない敗北感に包まれながらとりあえずジャージを着る蛍と、スウェットに白衣というアンバランスな格好にまとまった梓。
 蛍に頼んでパスワードを入れてもらい、新造の幹部権限『朝宮蛍』を起動させる。
「うん、ちゃんと動くね。ありがとう、あとは私がやっておくから、蛍ちゃんはもう逃げて」
 さっきの違和感が明確に形を持って、蛍は努めて軽い口調で梓の肩を叩く。
「あんたも来るんでしょうが」
「…………私は、いかない」
「なんでよ、碌な目に遭わないでしょ」
 事故で蛍を研究所外に出しただけで、尊厳をすべて奪われるほどの仕打ちを受けたのだ。こんな反逆行為に対してどんな制裁が与えられるのか、想像もしたくない。
 制裁というより、梓がそれを受けるのを想像して背筋を凍らせた蛍は、ぐいぐいと梓の服を引っ張った。
「駄々こねてないでさっさと立って! 逃げるの、一緒に!」
「もう嫌なんだよ!」
 ぱん、と頬をはたかれて、蛍は驚いて動きを止める。
 頬を押さえて、それから梓を見て、涙の幕を張った大きな目の奥に居座る空虚な色に、自分が思い違いをしていることに気付いた。
 てっきり、梓は演技をしていたのだと思っていた。この瞬間を待って、堕ちた振りをしていたのだと。
 だけど、きっと逆なのだ。 
 今この瞬間のためだけに、すべてを犠牲にして正気をかき集めているだけで、本当はもうその心は壊れてしまっている。

 梓は自分の体を両手で抱いて、血を吐くように呻く。
「もう、嫌だ。……疲れたよ。騙して、騙されて、狂わせて、狂わされて……。これ以上、苦しみたくない、もう……休ませて」
「でも、このままここにいても………っ!」
「私の奥歯には4種の薬が仕込んである。気付け薬、精神安定剤、不感剤までは言ってたよね。最後の1つは、自殺薬だよ」
 自我を削って魂を乗せるような言葉は、口調は軽かったけど、とてつもなく重たかった。
―――この、こいつは………っ。
 梓が今まで他人に背負わされてきたものの重さを、そのまま言霊にしたようで、蛍はふつふつと湧き上がってくる二つの感情を知覚していた。
「だめ、一緒に来て」
「嫌だって。それともなに? 一緒に出たら夢みたいな世界が広がっているとでも言う気? 私だって、外に無知なわけじゃない。馬鹿にしないで」
「良いから、お願い」
「しつこい。戸籍もない女が独りきりでどうやって生きて行けっていうのさ。どうして地獄でわざわざ生きないといけないんだよ」
「うるさいっ! 黙ってついてこい!」
 胸中を支配する感情の1つ、怒りのままに、蛍は思いっきり梓の頬を張った。
 ぱあんっ! と、尖った音が響いて、その反響が止まらない間に、蛍は梓の胸倉をつかむ。
「黙って聞いてればべらべらと! 私をこんなにしておいて、なに勝手に死のうとしてるのよ。そんな都合よく退場できると思わないでくれる、この自己中女!」
「………あははっ、結局蛍ちゃんも、敵じゃないか」
「それにっ」
 服から手を離されて、二発目が来る、と梓は顎の筋肉を固める。
 はたかれる分には構わない、痛みは薬のおかげでない。脳震盪にだけならないように受け身を取れば問題ない。
 そして蛍は、身を固める梓をぎゅうと抱きしめた。
 怒りよりも熱くて大きい、心に残ったもう一つの感情―――愛情に従って、ただ一番伝えたかった言葉を、精一杯に口にした。
「こんなに好きにさせておいて、勝手に死ぬなんて……ぜったいに許さない」

■■■

「…………………………はぇ?」
 頬を張られたときよりも強い衝撃が脳を揺すった。
 きいん、と耳鳴りのような音が頭に響いている中で、蛍の声だけが鮮明に耳朶を打つ。
「外に出れたら、今度は私が梓を守る。梓のために戦う。逃げるときも、仮に捕まってまた拷問されるとしても全部一緒に受ける。だから……死なないで」
 そんな都合のいい話があるわけがない。
 どうせまた、あかりの演技とかに決まっている、と梓は必死で何でもない風を装って鼻を鳴らした。
「は、っ。ま、まあそりゃそうだよね。蛍ちゃんからすれば、私はまだ利用価値があるもんね。でも、そんな無理して言わなくたって、約束は守るからさ」
「声震わせて何言ってんのよ」
 涙声の梓の頬を両手で優しく挟んで、蛍は微笑んだ。
 かつての夢に出てきたような屈託のない笑顔が、視界一杯に広がって眩しい。
 不明瞭な否定の言葉しか紡げずに呻く梓を見て、蛍は言う。
「嘘と強がりしか言えないなら、この口は没収ね」
 いつかの仕返しとばかりに同じセリフで、唇を奪われた。
 音もなく、しっとりとした感触を合わせられて、どんな媚薬を塗られたときよりも唇が熱く熱を持つ。
「………ん、ぅ」
 キスをしている時間は、数秒もなかった。
 離れるのを惜しむように、最後にちろりと唇の端を舐めて、蛍は顔を離す。そして椅子に座ったままの梓の顔を見て、思わず笑った。
「すっごいもの欲しそうな顔だけど、まだ死にたい?」
 かああ、と顔が熱くなって、梓はがたんと立ち上がって蛍を押した。びくともしないとわかると、悔しくなって今度はぽかぽかと肩を叩く。
「うっさいっ! 見んなっ、このっ、馬鹿ぁ!」
「ごめんごめんって。ほら、落ち着いて」
 頭一つ低い梓の顔を守るように、蛍はぎゅっと小さな体を抱きしめた。
 あやすように何度か背中を叩くと、しゃくりあげる声が少しずつ小さくなっていって、本当に子供みたいだと苦笑する。
「うぅ……ぐずっ…………。………ほだる、ちゃん」
「なに?」
「………………まだ私、しんじられない」
「別にすぐに信じろなんて言ってないわよ」
「……………ぎゅってして」
「はいはい」
「……………キスして」
「いくらでも」
 今度は数回、ついばむようにキスを落とす。涙で濡れたまつ毛の奥にある目に、うっすらと光が戻っているのが見えて、それで蛍も、少しだけ鼻がつんとした。
 いじけるような、駄々をこねるような表情で、梓は蛍に言う。
「…………つぎ裏切られたら、死んでやるからな」
「私は一回も裏切ってないでしょうよ……。それに、覚悟するのはあんたの方だからね」
「は? んう⁉ んんんっ! ん…………ん、ぷぁっ!」
 不意打ちで呼吸を止められるほど深い口づけをされて、梓は目を白黒させて体を固めた。
 縋るように蛍の腰に抱き着いたまま、ずりずりと椅子に崩れ落ちる梓を上から見下ろして、蛍は唾液で濡れた唇を片頬ゆがめると、挑発するように囁いた。
「愛されるってのがどういうことか、これからちゃんと教えてあげるわよ。梓」

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